■ 涼宮ハルヒの狼狽 T ■
 非常に唐突な滑り出しで恐縮だが、俺が今いるのは俺の家である。さらに言えば、その大きくもないごく普通の一軒家において俺が占領しているところの俺の部屋である。何故こんな回りくどい言い回しで自宅の自室にいることを述べねばならないかについては後述の通りであるが、端的に言って俺は今現在混乱の真っただ中におり目の前にある一冊の大学ノートに少なからず、いや相当驚いているからだ。
 いや待て、これがただの大学ノートだったなら俺は全く驚かなかったろう。何しろ俺はすでに雪山での遭難や探偵ごっこの推理ゲームをつつがなく終えて新年を迎えた後、こうして無事にSOS団冬期休暇ミーティングから開放される三日間を迎えていたのであり、その多大なる経験値から言って、UFO発見あるいはタイムマシン開発成功あるいは真の超能力者出現等々のニュースが飛び込んできたとしても、俺は驚いたり出来ようはずもなくすることもなかった。しかし、この俺の目の前に鎮座している一冊のノートがそんな俺を意図も簡単に驚愕の渦に巻き込んでしまった経緯については二、三言っておくべきことがあるだろう。


 事の発端はある一冊の大学ノートを見つけたことから始まった。
今まで一度もミーティングの内容を書き留めたためしもないくせに、突然新品の大学ノートを次回ミーティングで持参しろとはハルヒ団長からのご命令で、俺は珍しく勉強机を漁っていた。机の片隅に去年から手を着けていない冬季課題が見える気がしたが、そんなものはここにはあるはずないと俺の網膜は拒否したようで、そんなものは気にせず無い可能性の方が高い新品の大学ノートなどを目下捜索中だった。
 予想に反して机の中にはまっさらなノートが数冊あり、よくよく考えてみれば勉強もしないのにノートが勝手に減るはずもなく、次回見る機会があったら空っぽになっていて欲しいと思いながら、選ぶのも面倒だったので一番手前にあったノートを適当に引っ張り出した。
 だが俺はそこで妙なことに気づいた。サイズは他のノートと同じ、しかし色がそれだけ赤いノートが一冊ぽつんと青いノートの間に紛れ込んでいるのが見えたからだ。もちろん俺はその赤いノートを引っ張りあげた。見たところ俺がはじめに手に取った青いノートと色が違いこそすれデザインは全く同じ、一見新品のノートであるかに思えた。
 思えば俺はこんなノートを買った覚えがなかった。第一色の違うノートを一冊だけ購入して使わずに放っておき、さらに色違いのノートと一緒に保管しておくほど、さすがの俺と言えども大雑把な人間ではないことは自覚している。それに何故このノートは青いノートが並ぶ中で目立つ場所に挟まっていたかが特に謎である。
 加えて一見新品に見えたそのノートだったが、裏表紙を見ると既に使ったらしき刻印が穿ってあった。何やら『開封厳禁』と読める赤いスタンプで押したかのような文字だった。
 ここでこれをご覧の諸君に一つ質問がある。例えば友人の部屋に友人と二人でいて、その友人がトイレを理由に部屋を出たことを想像して欲しい。そこで諸君は友人の机の上にあるいかにも日記らしい冊子を見つけるとしよう。付け加えて日記には「見るな!」の一言が書かれた紙が添えられている。友人はトイレに立ったばかりで戻ってくるには少々の時間がありそうだ。諸君ならそれをどう思うだろうか。その場合その友人が実は大嫌いな奴だったとか他人の日記を盗み見るなんて大犯罪だと信じてやまない清らかな御心の持ち主を除けば、広く一般的に言って友人の日記を紐解いてみたくなるのが普通ではなかろうかね。
 しかしこの日の俺はどうかしていたようで、睡魔に勝てずに中身を確認しないまま二冊のノートを鞄にしまい込むと、シャミセンがちょっとだけ暖かくしてくれていたベッドに潜り込んだ。今思えばこの時俺がノートの中身を見ていたらと思うとゾッとするが。


 翌日の早朝、眠気眼を擦りながら俺は目を覚ましていた。何せ我が団の団長様は早朝集合がお好きのようで、冬休みにもかかわらず通常登校日さながらの登校時間を我々に強要するからである。まったく何が楽しくて冬休みにあんなけったいな山をハイキングして俺達以外誰もいない学校で一日中無駄に過ごさなくてはならんのか。朝比奈さんと二人きりでというなら話は別だが。
 そんなわけで俺はいつものハイキングコースを、平安期の暦に戻して今をいかに春にするかという無駄な議題について脳内で意見を並べ立てている内、いつもの文芸部部室へとたどり着いていた。
 いつもより少し早めに家を出てしまったので、恐らくあの読書大好き少女以外部屋にいる人間は皆無だろうと予想し、ノック無しでドアを開けた。もちろん、朝比奈さんの着替えシーンに偶然うっかり出くわすことはなく予想通り無表情を顔に貼り付けた長門一人だけが部室の片隅でハードカバーを広げていた。
「よう」俺はいつものように言った。
「…………」長門もいつものように無言の挨拶を返してきた。
 俺は折りたたみ式長テーブルに鞄を置き、大きく息を吐きながら席に着いた。いつものことではあるが、長門は一言も発しない。その冷ややかな空気にようやく俺の皮膚が反応したらしく、いつもなら点いている電気ストーブが作動していないことを察知した。スイッチをひねってストーブの前で暖まっていると、長門が音もなく背後に立っていた。
「どうした」俺は当然の疑問を投げかける。
「…………」
 長門は返事をしない。さすがに寒さを感じたんだろう。俺は長門にストーブ前の位置を明け渡してやった。しかし長門は暖まろうとはせず、その黒ビー玉みたいな瞳は確実に場所を譲って後ずさる俺を追っていた。
「どうした」
 俺は思わず質問を繰り返した。長門も長門で沈黙を貫き通していた。何がしたいんだこいつ、と思っていると、長門は唐突に俺の鞄を指差した。俺もそちらに目をやる。俺の鞄がどうかしたか?
「ノート」
 長門がこの日初めての単語を口にした。そして俺はその言葉で全てを思い出す。
 そうだ、確か昨日の晩ハルヒに頼まれてノートを探して、途中妙なノートも一緒に入れておいたのだ。しかし何でこいつはそれを知ってるかのように指差すんだ。まあこいつのやることにもういちいち驚かなくなったが。
 俺は早速鞄を開け、数少ない中身のうち真新しいノートを二冊取り出した。幸いここにはハルヒはいない。実はビックフットやネッシーが飛び出てくるノートだったりしたら危ないが、いて一番困る人間がいない。さらにはそんな怪物が突如出現したら卒倒間違いなしの朝比奈さんや、怪物を前にしても笑顔を微動だにせずに構え続けそうな古泉だっていない。いる人間と言えば、俺とまたいつの間にか定位置に戻って読書を再開した長門だけだ。
 こいつならいざってときも頼りになる存在であることは確信できる事であり、きっと何とかしてくれるだろう。俺は手に持った二冊のうち青いノートをテーブルの脇にやり、残った赤いノートを眺めた。俺の記憶が正しければ昨日のそれと何ら変わりないようだ。裏に『開封厳禁』の刻印もある。正体は不明だが、俺の部屋の俺の机の中に保管されていた俺のノートであるからして、俺が開いて悪いはずもないだろう。俺は何の躊躇もせずにノートを開こうと、表紙の厚紙とその間の薄い紙の間に指を入れようとした。その瞬間、
「待って」
 長門の声が聞こえた。見ると姿勢はそのまま、目だけが俺を見据えていた。俺は開くか開かないかの寸前で停止した。
「何だ?」
「そのノートには『開封厳禁』と表記されている」
「へ?」
 何だ何だ。自らノートの存在を記憶から蘇らせておいていざ開封というときにストップか? そりゃないぜ。
「禁止する表記がある場合、それは高確率で回避すべき対象」
「これは俺の部屋の机の中に新品のノートに混じって入ってたノートだぞ。やましいことなんか書いた覚えもないし、開くくらいはいいんじゃないか?」
「内容の確認はあなたの自由。私は警告しただけ」
 長門はそう言うとまた読書に戻った。見てはならないと、よりにもよって長門に言われてしまうと、何となくノートの内容が危険な匂いを発している気がしてくる。しかしながら見たい欲望はそうそう俺の頭からは離れてくれなかった。俺は赤いノートを見つめ続け、外側から確認できることは全部してやろうと、ノートの全体をひっくり返したりして見てやったが、やはり刻印以外妙な点は見つからない。強いて言えば、このノート自体が妙なもんだと思えてきてはいたが。


 ノートの確認をひとしきり終えると、タイミングを計ったかのように残りのメンバーも入室してきた。ハルヒはともかく、この寒空のもと冬休みも終わりに近いというのにご苦労なこった。風邪で休むという偽の選択肢は持ち合わせてはいないのか。ハルヒは風邪など存在すら知らないといったような表情で、我がSOS団マスコット朝比奈みくる女史に於かれては風邪も感染するのを遠慮するかのような可愛らしさを今日も如何なく振りまいて登場、最後の古泉に至っては他にする表情はないのかと言いたくなるほどいつもの微笑を顔に貼り付けてやってきた。
「早いじゃない、キョン。年明けてようやくあんたも団員としての自覚が芽生え始めたようね。感心するわ」
 言われてみれば、市内探索パトロールの時はハルヒと二人きりで会ったあの日を除いて、一度もハルヒより先に集合場所へ到着したことはなかったな。しかし、今日はハルヒが妙にご機嫌なのは俺の気のせいか? 気持ち悪いぞ。
「何よ、団長が団員を褒めちゃいけないっての? あたしは日々進歩してんの。あんたの体の細胞だって日に日に入れ替わってるって言うのに、あんた自体はそれほど進歩してないわねえ」
 そんなに毎日意見がころころ変わってたまるか。それを言うならお前がSOS団を立ち上げてから今日まで活動方針を変えない理由はどこに原因があるって言うんだ。
「うるさいわね、ものの例えよ。それよりノートは持ってきてくれたんでしょうね」
「何でいまさらノートなんか必要なんだ。今まで一度も使ったことなかっただろ」
 そう言いながら俺はテーブルの隅にスタンバイしておいた青い方のノートをハルヒに差し出した。
「さっき言ったでしょ、あたしは常に進歩してるの。既存の方法より良いと思えるものがあったら素直に新しい手段を採用するわけ。これもその一環よ」
 なるほど、さっきの誰でも知ってそうな生物学のウンチクはここへ持ってくるわけか。
 ところで、ハルヒと楽しく会話してばかりもいられない。本日はまだ会話を交わしていない朝比奈さんに矛先を向けたいところだ。しかしながら俺がそちらを見やるとそこには不快なスマイルがあった。
「明けましておめでとうございます。あ、もっともこれは鶴屋氏の別荘で既に交わしましたね」
 そうだったな。
「あの後も特に新たな閉鎖空間も確認されず、なかなかにゆっくりと休日を満喫できましたよ」
 そりゃよかったな。さすがにハルヒもちゃんと年末を満喫して満腹だったろうよ。今日の表情を見てもそれがわかるというものではないか。あの顔で閉鎖空間が発生してたら逆に恐ろしいだろう。
「全く持ってその通りでしょう。とにかく、仕事抜きで休暇を満喫できたのは久しぶりでした」
 そんな会話をしているとき既にハルヒは部室にはいなかった。ノートを片手に出て行ったのを横目で見たが、今度は何を始めるつもりなのやら。朝比奈さんはと言うと、俺が参上したのが早かったからかいつものメイド服には着替えずセーラー服のままお茶を淹れている最中であった。
「どうぞ」朝比奈さん特製緑茶が俺に差し出された。
「どうも」
 朝比奈さんはそれから古泉、長門と茶を渡しに回ってから、ハルヒの机にも置き、その上に蓋を置いた上で、俺の向かいの席に腰を下ろして自分の分の茶を飲み始めた。観察していると行動一つ一つがつくづく可愛らしいお人である。
 とりあえず長門を除く部室に取り残されたメンバーはオセロでもやるかと順番決めのじゃんけんをした。始めは俺と朝比奈さんである。古泉は長門に倣ってか自分も文庫本を鞄から取り出して読み始めた。
「ねえ、キョンくん」朝比奈さんが言った。
「何でしょう」
「最近、ひっかかることがあるんです。なにか、思いだせないような……」
 朝比奈さんにしては珍しい切り出し方だ。そもそもこの人は未来人なわけで、俺の知らない未来の出来事も知ってるわけだから、その言葉に違和感を覚えたのは言うまでもない。
「引っかかること、ですか」
「うん。どうでも良さそうなことなんだけど、でもとても大事なことだった気もするし…。思い出せないから気になっちゃって」
「奇遇ですね。僕もそうなんですよ」
 突然同意したのは古泉だった。話に入ってくるな。
「それが僕も先日からそのような症状に見舞われていましてね。何かが記憶にストップを掛けているというか」
「キョンくんはどう?」
 どうと言われましても。そのような心当たりは無いように思いますが。
「人間の記憶というものは脆くて弱い代物です。新たな出来事が記憶として投入されればされるほど、古い記憶は垢のようにボロボロになって脳の片隅へ追いやられてしまうものです。しかしながら現在僕が感じているのは、完全なる記憶の隔離とでも言いましょうか……。記憶の一部が切り離されている気がしてなりません」
 過去に忘れ去った記憶と思い出せそうで思い出せない記憶の境界線を教えてくれ。思い出せないならどうでもいい事だったんだろうよ。忘れた方が心配事も減って得するぜ。
「それがそうも行かないんです。どうでもいい記憶ならばすぐに存在ごと忘れてしまえるのですが、今回の場合重要だった内容の気がしてならないんですよ」
「わたしもどうしても思い出せないの」
 朝日奈さんはオセロを見つめながら、人質が解放されるのを待つ警察官のような面持ちで頭を抱え始めた。ふと長門に目をやると、そこには本を読んでいる長門がいただけだった。


 その日のSOS団ミーティングも滞りなく終了し、ハルヒがノートを使用するシーンも見られないまま、五人そろって帰宅と相成った。ハルヒはいつも通り一行の先頭で朝比奈さんの肩に手を回してご機嫌な表情で大行進している。古泉がその二人を追い、俺は長門と並んで歩く形となった。俺は早速朝からの懸案事項を長門にぶつけた。
「朝のノートの件だが、内容について何か知ってる風だったな。見ちゃいけないって言うんだったら、重要じゃないとこだけでも教えといてくれないか」
「朝日奈みくる、古泉一樹と同様、私の内部の情報蓄積用スペースの一部分にも厳重なプロテクトがかかっている。その冊子についても保護範囲に指定されているため内容については不明瞭」
「じゃあ何故止めた?」
「私の内部にプロテクトがかかるということは通常ではあり得ない事象。危険と判断した」
「なるほど」
「ただ」
「ただ……なんだ」
「96%の確率でその内容は過去に関するもの」
 要するにこれは一般的な日記なんだろう。誰かが書いた日記が偶然混入したか、俺が自分で書いていたことを忘れて机に突っ込んだんだ。
 しかし、誰がそうしたかは知らないが、長門の記憶を保護してまで隠したかった過去の事実――つまりこの日記の内容にも抵触することになるだろうが――とは何なのだろうかということが気がかりではある。手に持った感じで解る範囲でだが、このノートは通常のノートと何ら変わりなく、厳重なロックが掛けられている様子も無い。ただ『開封厳禁』の刻印のみである。
 ここまでくれば見ないわけには行くまい。まあ中身を見なければ後々の俺の行動は既定事項と異なることになるので、ここは素直に見てしまうのだが。
 と言うわけで、長い前フリはここまでとして本筋はこの後となるわけだが、本物の占い師でもなければタイムマシンを持つ未来人でもないごく一般的な人間である俺にとって、この先の出来事を予測することなど到底無理なものだった。
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